夢の残像、思考の欠片

泡のように儚く消える私の日常と、思いつき。

人を「好き」になることの正体とは。

人を好きになるって、なんだろう。

 

人を好きになるとは、どういうことなんだろう。

 

私は、あなたの何が好きなんだろう。どこが好きなんだろう。

 

「好き」という言葉の正体を言語化することは難しい。

 

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たぶん、「好き」には、能動的に「推す」感情と、受動的に「惹かれる」感情があると思う。私自身の場合、この両方が必要だし、両方のバランスが悪いとうまくいかない。

 

世の中には、たくさんの素敵な人がいる。魅力的な人がたくさんいる。そういう意味で、老若男女問わず、好きな人はたくさん存在しうる。私が他者を素敵だなと思うのは、「惹かれる」感情だ。素敵な人は、存在そのものが尊い

 

他方で、その魅力的な人や素敵な人に対し、自分が積極的に介入して「推す」となると、対象がぐっと絞られてくる。素敵な人を「推す」のは、「推したい」という気持ちにさせる何かがあるからだ。強く惹かれれば「推したい」という気持ちになるかというと、そうではない。それだけでは足りない。

 

「推す」というのは、他者に対する積極的な介入だ。「推したい」という気持ちが生まれるのは、自分が関わることで、その人が助けられたり、救われたり、より幸せになったりするだろうと思えること、すなわち自己効力感に対する期待が必要だ。

 

その自己効力感に対する期待は、他者から「求められる」ことと、その求められたことに対して「応えられる」自分の能力(スキルやポテンシャル、ポゼッション)が存在すること、の両者が必要だ。そもそも求められていなければ、どんな能力も意味をなさない。

 

ここで、「求められる」ことに対し、「応えたい」という自分の気持ちも本来は必要なはずだ。もっとも、「応えたい」は、多くの場合では「惹かれる」という感情で満足されるはずだ。「惹かれる」のに「応えたい」と思えないのだとすれば、何か阻害要因があるのだろう。

 

私はたいてい自分の「応える」能力を持て余している。「惹かれる」→(「求められる」→「応えたい」→「推したい」)→「推す」というサイクルがうまくいかないことが多い。最も多いのは、惹かれているのに求められないパターンと、惹かれてもいない人に求められるパターン。これだと「推す」に発展しない。

 

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「推す」という積極的な介入は、そのうち自分から他者を「求める」という感情を生み出すことがある。一見すると、「惹かれたので求める」というのはシンプルでわかりやすい。しかし、私の場合、「惹かれる」から「求める」というようにダイレクトに結びつかない。中間に「推す」というプロセスが必要なのだ。

 

なぜ、「推す」と「求める」ようになるのか。例えば、純粋なアイドルファンは、強く「推す」ことがあっても、アイドルに対して何かを「求める」ことはタブー視される。

 

「求める」は、「惹かれる」から「推す」までの「他者の幸せの軸」から、自分自身が幸せになりたいという「自分の幸せの軸」であり、自分本位で自分勝手でわがままだ。なかなか厄介な存在かもしれない。

 

でも、自分の「求める」は、相手にとって「求められる」ことであり、もし、相手が私と同様に、「惹かれる」→(「求められる」→「応えたい」→「推したい」)→「推す」というプロセスを踏むタイプであれば、相手が私を好きになるために必要な要素ということになる。

 

だから、私が相手を「求める」ことは、相手が私に「求められたい」と思っている場合にはうまくいく。そうではない、「惹かれる」から「求める」にダイレクトに結びつき、「求められたい」という感情がないタイプにはうまくいかないだろう。

 

惹かれて、求められて、応えたくなって、推したくなって、推して、求める。このプロセスが自分と相手の両者の中でバランスよく育つと、互いに惹かれあい、求め合うという、とても心地よい幸福感を生む。「好き」が「愛」に育つプロセスでもある。

 

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「好き」の正体を思い付きで言語化していたら、思いのほか書きすぎてしまった。

 

あなたの何に惹かれたのか、あなたの何を求めたのか、というような具体的な話は、また今度。